わたしが、幼年時代を過ごした新宿の古い家には、祖父が孫たちのために植えたという
柿の木が2本あった。それらは、がっしりとした幹に太い枝をいくつも備えており、秋
も深まる頃には例外なく沢山の実をつけた。それは、子どものわたしの目で見比べても
隣家のどれよりも立派であった。植木屋が誤ったのか、悪意でしたのかは知る術もない
が、柿は渋柿であった。もいだ柿の実は、その渋を抽くために大きな樽のなかに焼酎と
ともにねかされた。わたしは、柿の花が大好きであった。それは、ちいさな筒型の花弁
の白い花で、なんともいえない甘い薫りがした。散るとあっという間に茶褐色に変色し
てゆくのだが、わたしは、その筒型の花を拾い集めて花の首飾りをつくった。それを、
自分で「ゴ−ルド・ネックレス」と名付けて幸福な気分であった。祖父は、戦争で妻を
失い、幼い娘も亡くした。それは、少しもめずらしい話ではないかもしれない。しかし
生きて会うことのかなわなかった祖母は、セピア色の写真のなかで今も若く美しい。わ
たしは、すでに祖母の年令を上回ってしまった。あたりまえのようだが、死者はいつま
でも歳をとらないのである。思い出はいつの日も美しいともいう。わたしも、その幼い
日々を懐うときには、なんとも言い難いノスタルジックな想いに捕われてしまう。当時
はすでに、これはないと困るというようなものは、身の回りにはなにもなかった。わた
しは、日々増えてゆく玩具や百科事典の並ぶちいさな子ども部屋をこよなく愛した。そ
の窓からは、祖父の植えた柿の木がよく見えたし、ちいさな竹薮で笹の風になびく音も
聞こえてきた。祝日には、どこの家の軒先にも日の丸の旗があがり、それらの旗が揺ら
いでいる様も、一望できたことを覚えている。祖父は、戦後10年余りを、二人の息子
たちと逞しく生きぬき悲しみを心に封じた。祖父は、父が大学在学中に亡くなった。私
は、なにひとつ不自由なく育ったが、祖父母には生きて会うことはかなわなかった。け
れども記憶し続けてゆくことはできる。戦争で殺された祖母のことを、そして妻や娘を
殺された祖父のことを。祖父の名は「菊雄」といった。わたしは、その名前がとても好
きである。
1996.04.10(川村法子)
Copyright(C) Noriko KAWAMURA 1996
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